2008/03/15 (Sat) 18:55
昔々あるところに、後に一部の親しい人に対してだけ自分のことを「多恵」と名乗ることになる一人の少年が暮らしていました。少年は、自分が望んでいることを自覚していましたが、それは不可能なことだと諦め、そう考えること自体が悪いことだと思って、思考がそっちの方向へ向かわないように努めていましたし、周りの人から覚られることがないように細心の注意を払って過ごしていました。公立の高校に進学すると、音楽系の部活に入って、熱心に活動するようになりました。まるで、何かを忘れようとするかのように。
そんな高校生活も、3年間で自動的に終わりになります。少年とその仲間たちも、その順番に組み入れられて、「だいがく」というところへ行くグループと「よびこー」と呼ばれるところへ行くグループに分かれました。よびこーというところは、そこに行くことになる人のうち大抵の人は1年間だけで行くのをやめてしまうのだけど、望むなら何年間でも行くことができるので、仲間たちの中には2年間行く者もいましたが、ほかの多くの人と同様、少年は1年だけで飽きてしまい、だいがくへ行くことにしました。
ほとんどの仲間がだいがくへ行くことを決めた春、部活で一緒だった仲間たちが、みんなで集まってどこかへ小旅行へ行こうという話をはじめました。話し合いの結果は少年にも伝えられて、男女それぞれ4~5人の、それなりの団体さんができあがりました。行き先は、鈍行列車で1時間半ほどのところにある、鄙びた温泉街です。
そんな高校生活も、3年間で自動的に終わりになります。少年とその仲間たちも、その順番に組み入れられて、「だいがく」というところへ行くグループと「よびこー」と呼ばれるところへ行くグループに分かれました。よびこーというところは、そこに行くことになる人のうち大抵の人は1年間だけで行くのをやめてしまうのだけど、望むなら何年間でも行くことができるので、仲間たちの中には2年間行く者もいましたが、ほかの多くの人と同様、少年は1年だけで飽きてしまい、だいがくへ行くことにしました。
ほとんどの仲間がだいがくへ行くことを決めた春、部活で一緒だった仲間たちが、みんなで集まってどこかへ小旅行へ行こうという話をはじめました。話し合いの結果は少年にも伝えられて、男女それぞれ4~5人の、それなりの団体さんができあがりました。行き先は、鈍行列車で1時間半ほどのところにある、鄙びた温泉街です。
10代の若者10名ほどが到着した駅は、ほかに観光客がいるわけでもなくひっそりとしていました。宿までの道には、今では映画の中でしか見ることができないようなお店が並んでいたりしたけれど、やっぱり人はいません。旅館にはお客さんがいたようですが、若い人たちがいる気配はありませんでした。
若い男女が泊りがけで、というと、なにか起こりそうなものですが、彼らはお酒を飲むこともしないで、みんなで近くのボウリング場へ行ったり、宿へ戻っても、持ち寄ったお菓子と清涼飲料で夜通しトランプをしながらおしゃべりをして過ごしたのでした。トランプをするにしても、お金をかけたりということもなく、ただ楽しむだけです。健全というのでしょうか。ただ、彼らにはそれが普通でした。一緒にいて、くだらない話をして、時間を共有する。仲間がいる、そんなことが彼らにとって価値のあることだったのかもしれません。
1泊だけだったので、徹夜で語り合ったあとは解散するだけです。少年は、ここが温泉宿だったことを思い出して、なんだかもったいないことをしたという気持ちになりました。昨晩、ボウリングのあと体を洗いに行っただけで、あんまりゆっくりお湯につかっていなかったからです。たいして大きくもない旅館のはずなのに、浴室には中年から初老にかけての男たちがたくさん入っていたのも、くつろげなかった原因でもありました。少年は、裸の付き合いとかいうものが苦手だったのです。
朝食までまだ時間があるので、少年はもういちど、今度こそゆっくり温泉を楽しみたいと思いました。この時間なら、まだおじさんたちは眠っているだろうし、きっとすいてるだろうと考えたからです。ただ、温泉というところが、夜は閉まっているのか開いているのかということを知らなかったので、近くに座っていた部長に尋ねました。彼は、入学のころは体重が0.1tもあるデブでしたが、今では過激なダイエットと肉体労働のアルバイトの成果で見事な逆三角形の逞しい体をした男になっていました。体つきだけではなく、ひ弱で世間知らずの少年とは違って、世の中のいろんなことをよく知っていたので、少年は部長を頼りにしていました。
「ここは夜中にお湯を止めるけど、今ならもう入れるよ。俺も入ろうと思ってたんだ。」
部長と一緒なら安心です。それに、二人とも近眼だから恥ずかしくないだろうと思って、少年は一緒に入ることにしました。当時はまだ、コンタクトレンズはおしゃれに敏感な一部の人だけのものだと思っていた少年は、メガネをかけていました。お風呂にははずして入っていました。そういうものだと思っていたのです。
脱衣場で浴衣を脱ごうとしたとき、浴室から女性の声が聞こえました。何人もいます。ただ、声の調子と話し方から、若い人ではないことはすぐにわかりました。
「こういう古い旅館は、男湯と女湯で広さが違うものなんだ。だから時間で入れ替えたりするんだけど、広い方に入りたかったんだろうな。構う事ないよ。どうせばあさんばかりだ。」
そう言うと、部長はさっさと入って行きます。少年は躊躇しましたが、徹夜明けで思考が鈍っていたことと、取り残されるのがいやだったのと、せっかくの温泉だからという気持ちとで、ついて行くことにしました。
湯けむりと暗い照明に、裸眼だったことも手伝って、中にいる人の姿ははっきりとは見えません。どうやら、おばあさんたちはみな湯につかっているようでした。二人が入ってきても気にもせず、さっきまでの調子で大声で笑ったり話したりしています。「な。大丈夫だろ。」
少年はほっとしました。
体を洗ってから、少年はお湯につかりました。少し熱いくらいでしたが、我慢できないほどではありません。体をかくしていたタオルはお湯につけてはいけないけど、どうしたらよいのかわからないので、手に持ったまま所在無げにじっとしていました。ただ、おばあさんたちの方を見てはいけないという気持ちはあったので、視線は部長のいる右側の、何もない中空に向けられていました。
「・・・奥さん、奥さん・・・」
へぇ、おばあさんどうしは奥さんって呼び合うんだ。そりゃそうだ。結婚してりゃ奥さんだし、こういう田舎で独身で通すことは逆に難しかっただろう。
耳を傾けるわけではないおばあさんどうしの会話の断片が、ときどき少年の耳に入ってきていました。
「熱くないかねぇ。大丈夫?」
熱くったって、温泉なんだからしょうがないじゃん。水を足すのかな? たいへんだろ、そんなの。それとも、ここって、お湯の温度を調節できるの?
温泉がすべて「かけ流し」だというわけではないことも知らなかった少年は、そんなことを考えていました。
「若い人には熱すぎるんじゃない? 奥さん?」
おやっ? 若い女の人もいたんだ。へぇ。ってか、部長、さっき言ってたことと違うじゃん。そう言おうとした少年は、部長の口から意外な言葉を耳にします。
「こいつ、男ですよ。」
「あら、男の人だったの。ごめんなさい。」
どうやら、若いカップルだと思われたようです。日焼けした逞しい部長と色白でひ弱な少年の二人組だったので、そう思われたのでしょう。ほかに見るところもないような鄙びた温泉宿で一夜を共にした若い二人連れ。そう考える方が自然だったかもしれません。ただ、少年は、そんなことにまでは気が回らず、ただ嬉しい気持ちが部長に悟られていないかだけを心配していました。
脱衣場に戻って、腰にタオルを巻いたまま体を拭い、浴衣を手に取ろうとしたとき、少年は戸を開ける音に反応して思わず振り返りました。仲間たちの誰かが入ってきたのだろうと思ったからです。
そこに仲間はいませんでした。というより誰もいません。しかも、開いたはずの戸は閉められています。不思議に思っていると、戸の向こうから「なんだ、いいんじゃないか」という年配の男性の声が聞こえ、すぐに再び開かれた戸から宿泊客と思しき見知らぬ面々が入ってきました。
少年は何事もなかったかのように浴衣に袖を通すと、さっきのことは何かの偶然ではなかったはずとほくそ笑みながら、仲間たちのいる部屋へと戻って行きました。
若い男女が泊りがけで、というと、なにか起こりそうなものですが、彼らはお酒を飲むこともしないで、みんなで近くのボウリング場へ行ったり、宿へ戻っても、持ち寄ったお菓子と清涼飲料で夜通しトランプをしながらおしゃべりをして過ごしたのでした。トランプをするにしても、お金をかけたりということもなく、ただ楽しむだけです。健全というのでしょうか。ただ、彼らにはそれが普通でした。一緒にいて、くだらない話をして、時間を共有する。仲間がいる、そんなことが彼らにとって価値のあることだったのかもしれません。
1泊だけだったので、徹夜で語り合ったあとは解散するだけです。少年は、ここが温泉宿だったことを思い出して、なんだかもったいないことをしたという気持ちになりました。昨晩、ボウリングのあと体を洗いに行っただけで、あんまりゆっくりお湯につかっていなかったからです。たいして大きくもない旅館のはずなのに、浴室には中年から初老にかけての男たちがたくさん入っていたのも、くつろげなかった原因でもありました。少年は、裸の付き合いとかいうものが苦手だったのです。
朝食までまだ時間があるので、少年はもういちど、今度こそゆっくり温泉を楽しみたいと思いました。この時間なら、まだおじさんたちは眠っているだろうし、きっとすいてるだろうと考えたからです。ただ、温泉というところが、夜は閉まっているのか開いているのかということを知らなかったので、近くに座っていた部長に尋ねました。彼は、入学のころは体重が0.1tもあるデブでしたが、今では過激なダイエットと肉体労働のアルバイトの成果で見事な逆三角形の逞しい体をした男になっていました。体つきだけではなく、ひ弱で世間知らずの少年とは違って、世の中のいろんなことをよく知っていたので、少年は部長を頼りにしていました。
「ここは夜中にお湯を止めるけど、今ならもう入れるよ。俺も入ろうと思ってたんだ。」
部長と一緒なら安心です。それに、二人とも近眼だから恥ずかしくないだろうと思って、少年は一緒に入ることにしました。当時はまだ、コンタクトレンズはおしゃれに敏感な一部の人だけのものだと思っていた少年は、メガネをかけていました。お風呂にははずして入っていました。そういうものだと思っていたのです。
脱衣場で浴衣を脱ごうとしたとき、浴室から女性の声が聞こえました。何人もいます。ただ、声の調子と話し方から、若い人ではないことはすぐにわかりました。
「こういう古い旅館は、男湯と女湯で広さが違うものなんだ。だから時間で入れ替えたりするんだけど、広い方に入りたかったんだろうな。構う事ないよ。どうせばあさんばかりだ。」
そう言うと、部長はさっさと入って行きます。少年は躊躇しましたが、徹夜明けで思考が鈍っていたことと、取り残されるのがいやだったのと、せっかくの温泉だからという気持ちとで、ついて行くことにしました。
湯けむりと暗い照明に、裸眼だったことも手伝って、中にいる人の姿ははっきりとは見えません。どうやら、おばあさんたちはみな湯につかっているようでした。二人が入ってきても気にもせず、さっきまでの調子で大声で笑ったり話したりしています。「な。大丈夫だろ。」
少年はほっとしました。
体を洗ってから、少年はお湯につかりました。少し熱いくらいでしたが、我慢できないほどではありません。体をかくしていたタオルはお湯につけてはいけないけど、どうしたらよいのかわからないので、手に持ったまま所在無げにじっとしていました。ただ、おばあさんたちの方を見てはいけないという気持ちはあったので、視線は部長のいる右側の、何もない中空に向けられていました。
「・・・奥さん、奥さん・・・」
へぇ、おばあさんどうしは奥さんって呼び合うんだ。そりゃそうだ。結婚してりゃ奥さんだし、こういう田舎で独身で通すことは逆に難しかっただろう。
耳を傾けるわけではないおばあさんどうしの会話の断片が、ときどき少年の耳に入ってきていました。
「熱くないかねぇ。大丈夫?」
熱くったって、温泉なんだからしょうがないじゃん。水を足すのかな? たいへんだろ、そんなの。それとも、ここって、お湯の温度を調節できるの?
温泉がすべて「かけ流し」だというわけではないことも知らなかった少年は、そんなことを考えていました。
「若い人には熱すぎるんじゃない? 奥さん?」
おやっ? 若い女の人もいたんだ。へぇ。ってか、部長、さっき言ってたことと違うじゃん。そう言おうとした少年は、部長の口から意外な言葉を耳にします。
「こいつ、男ですよ。」
「あら、男の人だったの。ごめんなさい。」
どうやら、若いカップルだと思われたようです。日焼けした逞しい部長と色白でひ弱な少年の二人組だったので、そう思われたのでしょう。ほかに見るところもないような鄙びた温泉宿で一夜を共にした若い二人連れ。そう考える方が自然だったかもしれません。ただ、少年は、そんなことにまでは気が回らず、ただ嬉しい気持ちが部長に悟られていないかだけを心配していました。
脱衣場に戻って、腰にタオルを巻いたまま体を拭い、浴衣を手に取ろうとしたとき、少年は戸を開ける音に反応して思わず振り返りました。仲間たちの誰かが入ってきたのだろうと思ったからです。
そこに仲間はいませんでした。というより誰もいません。しかも、開いたはずの戸は閉められています。不思議に思っていると、戸の向こうから「なんだ、いいんじゃないか」という年配の男性の声が聞こえ、すぐに再び開かれた戸から宿泊客と思しき見知らぬ面々が入ってきました。
少年は何事もなかったかのように浴衣に袖を通すと、さっきのことは何かの偶然ではなかったはずとほくそ笑みながら、仲間たちのいる部屋へと戻って行きました。
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