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2025/07/07 (Mon) 17:49
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2008/03/15 (Sat) 18:55
昔々あるところに、後に一部の親しい人に対してだけ自分のことを「多恵」と名乗ることになる一人の少年が暮らしていました。少年は、自分が望んでいることを自覚していましたが、それは不可能なことだと諦め、そう考えること自体が悪いことだと思って、思考がそっちの方向へ向かわないように努めていましたし、周りの人から覚られることがないように細心の注意を払って過ごしていました。公立の高校に進学すると、音楽系の部活に入って、熱心に活動するようになりました。まるで、何かを忘れようとするかのように。

そんな高校生活も、3年間で自動的に終わりになります。少年とその仲間たちも、その順番に組み入れられて、「だいがく」というところへ行くグループと「よびこー」と呼ばれるところへ行くグループに分かれました。よびこーというところは、そこに行くことになる人のうち大抵の人は1年間だけで行くのをやめてしまうのだけど、望むなら何年間でも行くことができるので、仲間たちの中には2年間行く者もいましたが、ほかの多くの人と同様、少年は1年だけで飽きてしまい、だいがくへ行くことにしました。

ほとんどの仲間がだいがくへ行くことを決めた春、部活で一緒だった仲間たちが、みんなで集まってどこかへ小旅行へ行こうという話をはじめました。話し合いの結果は少年にも伝えられて、男女それぞれ4~5人の、それなりの団体さんができあがりました。行き先は、鈍行列車で1時間半ほどのところにある、鄙びた温泉街です。
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2008/03/13 (Thu) 05:34
ホメオスタシス。
これは手ごわい。なにしろ万物に備わった精巧な機能だから。
でも、なんとかするべ。
2008/03/11 (Tue) 23:37
「できない」っていう思い込みをどうやって取り除くかということなんだね。
イメージトレーニングも、クレンジングも、新月のお願いも、引き寄せの法則も。

その「思い込み」が何のためにあるのかはわからないけど、きっと、必要があってそうなったんだよね。ただ、いつまでもそうである必要はない。そういう、「思い込み」をうまく捨てることができた人がたまに現われて、とてもよい結果を生みだしているんだ。

物事をうまくいかせるためのいろいろな仕掛けは、実は、こういう思い込みを捨てるためのおまじないだったりする。
問題なのは、そんなおまじないたちを頑として受け入れない人間がいるということ。私のことなんだけど。

こういう人間に、そのおまじないを信じ込ませる方法はないものかなぁ。
仕組みはわかったんだから、あとはその仕組みを取り込む方法だよね。
カラクリが下手にわかっちゃったのが悪いのかもしれないけど。
2008/03/10 (Mon) 00:15
手足がすくんでしまって身動きがとれない。
もう、動かし方も思い出せない。
そういう機能がもともとあったことさえ忘れてしまった。
辺りを見渡すのも怖いから、すぐ前の地面だけをじっと見つめている。
目を閉じてしまえばいいのだけれど、それも怖いから、じっと一点だけを見つめてる。

ほんとは立ち上がって、前に向って歩きたかった。
だけど、どうしたらいいのかわからなくて、手も足も縮こまってしまったんだ。

しゃがみこんでいた私に、ときどき声をかけてくれたけど、とうとう、愛想を尽かしていなくなってしまった。2年くらい前のことだ。
そりゃそうだろう。あれだけ親切に教えてやったのに、勇気づけてやろうとしたのに、まるで応えないのだから。
でもね、私だって、考えたさ。行動にまでは移せなかったけど。ただ、全然わからないんだ。今となっては、自分がどうしたいのかさえもわからないんだよ。絶望してるんだ。その絶望感を捨てることができるかもしれないなんていう希望も持てないくらいにね。そういう気持ちでいることが心地よいとかそういうのじゃないんだよ。どう言ったらわかってもらえるかわからないけど、ほんとに、自分は何のために生きてるんだか、どうして生まれてきちゃったのかって思うんだ。

ただね、今日、そんな風に考えてたら、とても悲しくなって、涙が出てきたんだよ。こんなこと、久しぶりなんだ。涙が止まらなくて、寂しくて、辛くなって、少しおさまったから、この気持ちを書きとめておかなきゃって、いまこれを書いてるんだ。

泣いたからって何も解決しないのはわかってるし、こんな文章書いても意味がないんだけれど。相変わらず手足はすくんで身動きがとれないし、絶望感はそのままだよ。

わかってるんだ本当はね。はじめから無茶なことだって知っててやってるんだから、結果が出ないのは予定どおりなんだから。どうせそういう人生なんだよ。生まれたときから決まってたんだ。

また一週間が始まる。そしてまた一週間無駄に時間を過ごす。はじめから無駄な人生なのだからそれでいい。ただ、寂しいのだけはなんとかしたい。そのためには、こんな考え方をしている自分を変えなければいけない。そうでなければ、こんな奴、誰も相手にしてくれないから。だけど、自分を変えるなんてできない。だから、寂しさを苦に思わないように慣れてしまうしかない。もう、かれこれ2年ばかり過ぎた。なかなか慣れないもんだ。

少しおさまった。なんだ。自分の無価値なことを再確認すれば済んだ。簡単なことじゃないか。
2008/03/09 (Sun) 17:56
きちんと蛋白質は摂って、脂質と糖質を減らして運動をするっていうのが健康的に痩せるための正しい考え方なのを重々承知の上で、敢えて動物性蛋白質を可能な限り摂らないようにして、脂肪はそれなりに摂って、運動はしないで痩せようとしている私。
こんなことをしたら、筋肉が落ちてしまって、ますます痩せにくい体になってしまうのもちゃんと分かってる。筋肉を落として皮下脂肪をつけたいんだからこれでいいのだ。
ほんとのこと言うと、陸の上を歩いていた、生きていたときは温かかった動物の肉を食べることがだんだん厭になってきたんだ。そうは言っても、スープになってたりしたら食べちゃうけどね。あと、お魚はまだ食べられる。ベジタリアンにはまだまだ遠い。
あと、最近苦手になってきたのがパンの類い。洋菓子とか饂飩とかは平気だから小麦粉が嫌だとかそういうのではない。ただなんとなくパンが嫌い。

この辺、どうも最近のプロパガンダに踊らされてるだけな気がする。フード・マイレージとかいうあの話とか、食料自給率の話とか。でも、まあいいじゃないの。
そもそも、最近の若い子は別にして、足が短くて胴の長い日本人ってのは、穀物を食べるために腸が長いんだから、やっぱ、肉食べちゃいけないんだよ。で、せっかく海に囲まれてるんだから、お魚はありがたく頂戴する。それも近海で獲れる小型の魚に限定。白米なんてのも庶民が口にできるようになったのは工業化が進んでからのことだから、よくて玄米、ほんとは雑穀がいい。
そういう食生活がしたい。でも、却ってお金がかかったりするから困る。何かが間違ってる。

こんな日記になっちゃったのは、演奏会に行くのを諦めたから。よくよく考えると、チケット3,000円プラス交通費1,000円なんて、そんな贅沢できないんだ。早く気づけよ私。
2008/03/08 (Sat) 20:39
毎年、この時期は花粉症の症状と風邪の症状の区別がつかなくて、どうしていいのやら悩む。花粉症歴20年にもなるというのに。
今回のは寒気がするから、きっと風邪だ。そう思って、昨日家に帰ってすぐ布団に入って、さっきまで寝てた。寒気は少し治まった。

目が覚めて、PCの電源を入れてMySoundを聴いた。このところ、テレビを見る気もしなくて、本なんかもってのほか、持ってるCDは重い曲ばかりだし、楽しみはMySoundくらい。ユーザ登録はしてないから、もっぱら聴くだけ。人と交流するなんて面倒くさいし、そもそも、私にはそんなことする権利はない。人の才能にちょっと嫉妬してみたりして過ごした。

音楽はいい。家で聴くももちろんだけど、ホールに行っても客席はみな同じ方向を向いて、音も立てずにじっと座っているから。
もちろん、ステージに立つほうが楽しい。でも、それには高度な資格が要る。有資格者であっても、きちんと準備しないと乗ることができない。厳しい世界だ。

音楽はいい。忘れていた感情が蘇ってくることがあるから。
やっぱり生の演奏を聴きたい。それも、大掛かりなやつがいい。少人数の音楽には少人数のよさがあるのは当然だけど、どっちが好きかと問われれば、私は大人数でやる音楽が好き。人数が多ければ、当然、その組織の運営は大変なものになるし、そもそも、それだけの人数を集めることだけでもなかなかできることではない。「大は小を兼ねる」なんてことはないからレパートリーも限られるし、会場も大きなものが必要になってお金もかかる。だから、そういう多くの困難を乗り越えて行われる演奏会は、開かれるだけで賞賛されていい。その場に居合わせることができれば、それだけで幸せになれる。

明日、杉並公会堂で、そんな大掛かりな演奏会が開かれる。
合唱音楽の世界では、我が国で屈指の指導者である藤井先生が手がける合唱団が一堂に会して、三善先生の作品ばかりを奏でる企画だ。
見たい。大規模な合唱団と名指揮者の組み合わせ。それにふさわしいスケールの大きな曲の数々と素晴らしいホール。

去年の年末から、大谷先生、岩本先生と、これまで聴きたかったのに聴くことができなかった指揮者の演奏会に足を運ぶことができた。学生のころは、コンクールの全国大会に行けば、浅井先生や辻先生、栗山先生を間近に見ることができた。東京六大学を聴きに行けば福永先生や北村先生だって。関谷先生も御存命だった。大好きな大合唱団の音楽と名指揮者たちが、ちょっと足を伸ばせば聴くことができる幸せな環境だった。

今だって、大きな合唱団はあるし、優れた指揮者もこの国にはたくさんいらっしゃる。そんな演奏会が明日開かれる。
体調次第ということもあるけれど、当日券が手に入るかも心配だ。

荻窪に着く少し手前には高円寺がある。思い出がいっぱい詰まった街。そこを通過しなければいけないことも少しばかりの障壁だったりする。
2008/03/07 (Fri) 05:37
この前の日記の後半は、負け惜しみ。
きっと、私だって楽しかったときはあったんだ。
人間の記憶なんて、あやふやなものだ。
負け惜しみというより、自己防衛なんだと思う。
だって、ほんとに忘れてしまったから。
2008/03/05 (Wed) 23:43
デパートのトイレに、真っ赤なコートを着て髪をアップにした若い女が入ってきたので、親切心で「こっち、男性用ですよ」と声をかけたら「男です」と返された。

ぱっと見、わからなかった。
次の瞬間、見抜けなかったことが悔しくなった。
そのあとで、ああいう格好して男のトイレに入るのはよくないよなぁって思った。けど、よく考えてみると、私だって、滅多にないけど見間違っちゃう人もいるから、迷惑かけてるっていうことでは一緒だ。

それにしても、ああいう格好で出歩いて、でもトイレとかは男の方を使ってるって、なんだか中途半端だなぁ。私があのクォリティだったら、絶対そんなことしないけどね。でも、その人はそれがいいと思ってるんだから、私がとやかく言うことではない。

ただ、その連想で、女装って何が楽しいんだろうって思った。
昔を振り返ると、私は、化粧することも女性用の衣服を身につけることも別に好きじゃなかったし、「女なんだから当然なのっ!」とかそういう意識も全くなかった。
じゃあ、なんで女装スナックなんてところに出入りしてたかというと、人に会いに行ってたっていうのと、なんていうかなぁ・・・練習っていうのが近い感覚か。

何度も何度も繰り返してるうちに、それが似合うようになるんじゃないかっていう、何の根拠もない期待があって、高い金払って通ってたんだ。
結局、なんの効果もなかったけど。
もう、練習なんかしてもしょうがないことも分かっちゃったしね。
2008/03/02 (Sun) 17:55
以前のようには焦ったり妬んだりしなくなった気がする。以前の状態が異常だったということではある。
未来のことを気に病むということも少なくなった。別に希望が見えたわけじゃない。状況は何も変わっていない。
今、この時点のことも何も考えてない。
過去を悔いることも、しないといえば嘘になるけど、病的なほどではなくなった。悔やむ気持ちが強すぎて動悸がしたり、涙が止まらなかったりということはまず起こらなくなった。

これが望んでいた平安なのだろうか。
数ヶ月前に起きたはずのことも、まるで人から聞いたことのようだ。「夢を見ていたみたい」なんていうほどにも現実味が感じられない。時間の感覚や日付の感覚が全くないと言っても過言ではない。

もしかしたら、私はもう何年も眠ったままだったのかもしれない。だとしたら、今はただ、眠る前の記憶が蘇ってくるのを待っているだけなのだろう。その記憶が恐ろしいものではなかったことを祈りながら。
それとも、今がまさに眠っているそのときで、待っているのは記憶の復活なんかじゃなくて、本当の眠りに落ちることなのかもしれない。こっちのほうが当たっている気がする。

どっちでもいい。ただ、何もする気になれないというのが、気になるといえば気になる。気にしなければいいと言われればそうなのかもしれない。というか、すでに気になってなんかいない。そんな程度だ。
2008/03/02 (Sun) 00:43
そういうふうに私は思わない(と思ってる)から、全然思いつかなかったけど、もしかしたら、それが理由なのかも、なんて思いついてしまった。

だけど、そう思うことはとても失礼だし、嫌なことなので、もし本当はそうだったとしても、私はそうは考えないことにした。「もし本当は」なんていう仮定そのものが、そもそもいやな考えだし。

占いによれば、今は「報いのとき」なのだそうだ。
「報い」という言葉は、良い意味でも悪い意味でも使われる。自分がしたことが自分に返ってくるということだから、良いことをすれば良い結果が、悪いことをすれば悪い結果が返ってくる、ということのはず。私は周りに対して良い行いをしてきた記憶がないので、この占いの文を読んだ瞬間、悪いことしか思いつかなかった。「当然の報い」とか使われるときの「報い」としか読めなかったのだけれど、逆の意味が最初に浮かんだ人もいるに違いない。
楽しみに待つことにしよう。いずれにしても受けるしかないのだから。悪い意味での報いであれば、今まで気づかずにしてしまっていたことに気づくきっかけになるかもしれないし。

と、ここまで書いてて思ったけど、能動的に「報いるとき」であると解釈すれば、これまで受けた恩になら思い当たることはたくさんあるから、やるべきことはいっぱいあるということになる。どういう形でするのがいいのかは全然わからないけど、そういう気持ちを持つことは大切なことだ。いいことに気づかせてもらった。

占いって、なんだかよくわからない書き方をしてることが多いけど、こんな風に、読んだ人が自分の状況に合わせた解釈ができるように書いておけば「よく当たる」と言われるし、そもそも、自分に都合よく解釈することができれば、その人にとってもいいわけだから、そんなふうに書くものなのか。と、いまごろ納得したりした。

「今、最も欲しているものは、ギリギリのところではあるけれど、手の届く範囲内にあって、取引を完了するために必要なエネルギーを出し渋らないように」とも書いてあった。
導入部分で、代価をお金以外のもので支払うことがあって、その中には選択肢を諦める必要に迫られることもあるというようなことが書いてある。ここの解釈は全然できない。欲しいものを手に入れるには、ほかの何かを諦める必要があるなんていうのは、至極当然というか一般的な話なんだけど、私が欲しいものは、何かを犠牲にしたくらいでは手に入らない。というか、犠牲にするような大切なものなんて何も持ってない。出し渋るほどエネルギーなんてないし。

・・・手に入らないということか?
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