それとは全然関係ないけど、グーグルで私の日記が見つけられなくなった。ということは、知らない人が見に来る心配はなくなったわけだ。少しは情報発信しようかと思った時期もあったけど、無茶な事しなくてよかったと思う。
ただ、こうなるとメールとどこが違うのかということになる。使い分けとしては、伝えたいことはメールで、そういう意思のない殴り書きとか、本当は伝えたいんだけど遠慮しておくようなことはこっちに、って感じか。どうやっても伝わることを意識しないわけにはいかないから、「メールには書いてないじゃん」 っていうのも言い訳にすらならないが、ここには正直に、素直な気持ちを書いていきたい。
ご批判はメールでお受けします。
俄か活字中毒症状は、わずかな期間で満腹になった。ラカンと一緒に借りてきた薄っぺらい本は、一瞬で3冊読みきってしまった。ついでに、安さに惹かれて買った芥川の短編集も読んだけど、若い頃には怖いと思った 「歯車」 とか 「地獄變」 とかも、「ふ~ん」 と読めてしまって拍子抜けした。日ごろの鬱々とした思考からすれば、あの程度は取るに足らない。
残るはセミネールだけだけど、これはただ字を追うだけになりそうだ。一応、キーワードの予習だけはしてみたが、これが難解すぎる。ただ、学生のころに巡り会っていたら人生違っていたのではと思うと、つくづく理工学専門の大学を選択したことが悔やまれる。
私の両親は大学というところに行っていない。だから父は、私にどうしても大学へ進学させたかった。しかも、勉強の性能だけはよかった私に、国内で一番人気の高い、文京区内の国立大学への進学を熱望していた。私は、父が嫌いだった。それだけの理由で、そこではない大学に進学した。
理工系を選択したのも、高校時代のおかしな拘りからだった。
実は数学は苦手だった。もちろん、学校のテスト程度なら常に上位の成績をとるくらいのことはできていたが、それでも、なんとなく克服できそうにない何かがあるとは思っていた。しかし、理系に進むか文系に進むかを選択しなければいけなくなったとき、「苦手だから」 という理由で文系を選択することは、敗北を認めるような気がしてできなかった。そして、そのような理由で選択しただろう連中が集まる文系の学部がある大学に行くことには抵抗があった。
中学の同級生で、有名私大の教授の息子がいて、私は全く相手にしていなかったが、目立って成績のよかった私に勝手にライバル心を持っていたらしかった。彼は、両雄と並び賞される、父親の勤め先ではない方の有名私大の理工学部に現役合格していたが、一浪して合格した私の名前を新聞の地方欄で見て (今では考えられないが、昔は出身高校併記で一覧表示されたものだ。)、突如電話をかけてきた。高校3年間音沙汰無しだった彼が、「お前は東大の文I に行くんじゃなかったのか」と、それを言うためだけに。私はそんなこと言った覚えはないが、彼には、私に理系の才能のないことが見えていたらしい、という、そんなエピソード。
話が脱線した。理工系の大学とは言っても、大学生というのは、いろいろなものに興味を持つ年代だから、専門以外についてもそれなにりに才能のある人たちは身のまわりにたくさんいた。ただ、交友関係の幅が狭かったことを差し引いても、心理系の話題を耳にすることはなかった。心を病んで自殺する者はそれなりにいたが、それとこれとは結びつかなかった。
自殺といえば、私の所属していたサークルの後輩が、一人、それを遂げていた。警察や友人、そして家族にあてた手紙を投函した後、学内の一番高い棟から投身したもので、衝動的なそれではなかった。その遺書には、今が最も幸せな時期だから、といった内容が書かれていたそうだ。当時の私は、そんなことはないだろうにと思っていたが、今では、・・・やめておこう。葬儀の日は電車が止まるほどの大雪だった。
ここ数日、どうにも気が滅入っている。やはり薬の量が少ないのか。ただ、副作用と思われるもののうち、動悸と頭部膨満感は少し軽くなった感じはするので、戻すのも怖い。眠気は少しも変わらない。昨日は彼女のページを見に行った以外は何もできず、食事とトイレ以外は眠っていた。それでもまだ眠い。
いよいよ行動に移さないと、本当に腐ってしまいそうだ。とはいえ、かつてのあそこのように敷居の低いところは存在しえないし、必要なものも何一つ所有していない。それに、充分な準備なしに行動してしまうと、精神的打撃があるのは間違いないだろう。いや、むしろ今の状態なら、どういう結果であっても笑って受け流してしまえるかもしれない。
いっそ腐ってしまった方が幸せか。それなら、腐る前に自分で止めを刺す方が、あの後輩の美しい論理に近いように思える。
大嫌いな父が言っていた。「自殺はいかん。人間、死ぬ気でやれば何でもできる。」
ばかか。そんなはずはない。未だ日本人は100mを10秒未満で走ることができない。陸上競技の選手たちは「死ぬ気」で鍛錬していないとでも言うのか。
人間、生まれたときには、すでに才能に限界を持ってしまっているものだ。個々の赤ちゃんは全て異なっている。もちろん、常識的な範囲では、努力で克服できないものは少ないのだろう。でも、性別を越えるなんていう非常識なことは、すでにそのときに不可能性が決定されているのだ。
だから、そんな無理なことは忘れてしまうべきなんだ。分かってるよ。でも、なぜだかそれができないんだ。
すでに死を決意していた彼の最後のパフォーマンスは素晴らしかった。それを見た誰もが、何らかの異変に気付いていた。私には憑依と映った。嫉妬すら覚えたほどだった。