Google様からは嫌われたこの日記も、Yahoo様だと検索に引っかかるみたいですね。
解析してみると、こちらにお越しくださるときの検索ワードは「プロセキソール」が多いです。
あと「朝 洗顔しない」っていうのもありました。
いえ、たしかにそうですけど。その人にとって、私は「朝 洗顔しない」人なんですよね(笑)
なんか不潔な人っぽく思われてたらイヤですね。あくまで美容のためですからね。
効果のほどですか? なんとなくオイリードライっぽさは改善されつつあるような気はします。
希望的観測ですよ。もちろん。もう歳だから1ヶ月やそこらで肌は改善されないでしょう。
もう少しつづけてみます。
ローションパックは、朝晩2回を目標にしてましたけど、朝は無理です。面倒すぎです。
こっちの効果も今のところ不明ですけど、パックをはがしたあとはすごく気持ちいいです。
寝付けないけど眠くて何もできないので、「これでもか」と長湯。もちろん半身浴で。じゃないとのぼせてしまって大変なことになるよ。
ふと、あの体験はトラウマになっているのではないかと思った。一般的に言えば、言葉の定義にはあてはまらない、ちっぽけな経験ではあるけれど、確かにあの日、「私」は「死んだ」のだ。そして、その記憶が、折をみて繰り返し私を苦しめ続けている。トラウマだととらえてしまって差し支えなかろう。
そうであれば、対処の方法はあるに違いない。モノの本によれば、言葉やイメージの世界に捉えなおして、通常の記憶と同じ類にしてしまえればいいらしい。ほんとかどうかは知らないし、文字通りのトラウマに悩まされている人が読んで憤慨するような誤解だったりしたら申し訳ないけれど、私が悩み苦しみ続けている原因が自分なりに理解できたという認識を持つに至ったのは、非常な安堵感をもたらした。
聞いた話だからウソかもしれないが、体操の選手が鉄棒から落下して大怪我をしたとき、治療より先に、まず、コーチが抱き上げて無理やり鉄棒をにぎらせるのだという。そういうことをしておかないと、その選手は、恐怖から二度と鉄棒ができなくなるからとか。
仮に正しいとしても、全てに当てはまるとは考え難いが、少なくとも私は、あの日のあの経験から、その世界を見ないようにして過ごしてきた。そして、二度と足を踏み入れることはないだろうと思っていた。恐怖心が芽生えてしまっているからだ。ただ、その恐怖心は得体の知れないものだった。
だけど、先月、とうとうその場所で短い時間を過ごすことができた。全ては彼女のおかげだ。そんなこと、普通の人にとっては、取るに足らない出来事だけれど、私にとっては、大きな大きな一歩だった。・・・そうに違いない。そう思いたい。
驚いたことに、そこに書かれていたことのほとんどが、これまで出会ってきた人たちからすでに聞いていたことばかりでした。ということは、私は、大切なことをいっぱい教えてもらってたのに、それを(悪意はないけど)聞き流していたということになります。なんてことをしていたのでしょう。
私にいろいろ教えてくれた人たちに、遅まきながら感謝します。
出版された本に書かれた「権威付けられた」内容だから改めて信じたとかいうことじゃありません。一度伺ったときには理解できていなかったことが、本を読んで復習できたというか、記憶が甦ったというようなことです。あとは、ちゃんと理解して身に付けて実践して、これまで関わってきた人たちに感謝の気持ちを伝えることができるように、ご恩返しができるように、していければいいなと思います。
急には無理です。できることから少しずつ始めます。さて、何ができますやら。まずは、この気持ちを維持することからでしょうか。
たまには楽しいことを考えてみたいと思ったりもするわけです。何がどうなったら楽しいかな~と考えてみると、やっぱり「彼」からメールが来たりしたら楽しいです。きっと。
でも、ぽけーっと待ってても、楽しいことはやって来ません。アクションを起こさないとダメです。ちょっと変ですけど、あまり深く考えないで、そういうことにしておきます。考えちゃダメです。メールがほしければ、返事が書きたくなるようなメールを送るです。「メールちょうだい」って電話しても願いは叶うでしょうけど、これも今はなしです。「彼」なら、なにもしなくてもメールくらいしてくれるんじゃないの? という疑問もなしです。なんでもいいから、「彼」にメールすることだけ考えます。
さて、ここで問題です。一番いいタイミングで「彼」にメールしたいと考えたとします。なぜなら、「彼」は忙しいし、私に対する関心が薄いことが分かっているからです。だから「彼」っていうのはそういうのじゃないって言ったでしょ。要するに、せっかく送ったメールが元で嫌われたくないと思っているので、そうなる可能性を最小限に留める方策を考えようというのが今回の命題です。
ここでは、次のことを仮定します。「『彼』にはすでに彼女がいて、いつもチャット状態でメールのやりとりをしている。」
発想が貧困な私が思いつく最悪の条件です。この条件で、さきほどの問題の最適解を探ってみましょう。
なんて考えながら、駅から家まで帰り道をとぼとぼ歩いてました。なんにも論理的に考えてません。多分、正解は「いつでも同じ」なんじゃないかな~っていうのが、私の答え。「自分だったら」っていう、子供じみた発想です。
よほどしつこくつきまとわれない限り、どうでもいいと思ってる人から好意を寄せられても、それほど不快には思わないんじゃないかな。モテた経験がないから分かりませんが。それとも、モテてモテて仕方ない人は、どうでもいい人から告白されたりすると不快なのでしょうか。
それならそれで、はっきりしていいかもしれません。くよくよ悩んでるより、大泣きするほうが健康的です。きっと。
でも、本当にそうなったら、私どうするだろう? ちょうどいいや。あしたはお医者さん行く日だった。
それとは全然関係ないけど、グーグルで私の日記が見つけられなくなった。ということは、知らない人が見に来る心配はなくなったわけだ。少しは情報発信しようかと思った時期もあったけど、無茶な事しなくてよかったと思う。
ただ、こうなるとメールとどこが違うのかということになる。使い分けとしては、伝えたいことはメールで、そういう意思のない殴り書きとか、本当は伝えたいんだけど遠慮しておくようなことはこっちに、って感じか。どうやっても伝わることを意識しないわけにはいかないから、「メールには書いてないじゃん」 っていうのも言い訳にすらならないが、ここには正直に、素直な気持ちを書いていきたい。
ご批判はメールでお受けします。
きのう、FMでシュトラウスの室内楽を聴いて 「かっこいい」 と思った。
意外だった。 長生きはしてみるもんだ。
この調子だと、ブラームスなんかをありがたく聴ける日も来たりしそう。
歳をとるのも案外いいものなのかもしれない。
一人で考えてると悪循環に陥るばかり。
目指すべきものを示してくれるなにかが欲しいけど、
それを他人に求めるのは無理なので
図書館などというところに行ってみました。
「サルでも分かる」 的な本は、結局なにも分からないことが多いから、
今回は思いっきり難しめの本を何冊か借りることに。
いきなりラカンです。 それもセミネールの日本語訳に挑戦です。
・・・なんなんでしょう。 このわからなさ。 ある意味快感です。
きっと、ラカンに行き着くまでに辿るべきルートがあるんでしょうけど、
道楽で読むんだから、そんなのどうでもいいです。
それより、「何かしたい」 と思ったのは本当に久しぶり。
そのことがとても嬉しい。
世の中どころか、誰ひとり気にもしない。 というより、気が付かない。
現に、その世界から身を引いて何ヶ月も経つけれど、
私がいなくなったことを気にする人もいなければ、
何かが変わったという知らせを耳にすることもない。
そう。 私がどう変わろうと、気にする人なんていやしないんだ。
だったら、いい方向に変わりたいもんだね。
それでも誰も気が付かないだろうけど。
乗っていた総武線快速は、東京駅を過ぎて横浜方面に向かっていた。 品川駅で、やはり右手に東海道線の下り熱海行き電車が停車していた。 私が自分の青春と見なしていた期間に、私にしては足繁く通った店~もう今はないが~から帰るとき、東京駅から東海道線の下り小田原行き最終電車に乗るのが常だった。 最終電車はいつもたいへんな混雑で、品川駅から乗車しようとする客たちが全て乗り終わるのを待つために、数分、ときに十数分待つこともしばしばだったが、今日、私が見た下り熱海行きは、座っている人の数を数えることさえできるくらいに閑散としていた。
みんな変わってしまった。 亀戸にあったその店は場所を変えてもあい変らず営業しているし、東海道線がすいていたのも日曜日の午後だったからたまたまではあるけれど。 でも、私が一旦はあの世界から別れを告げることにしたあの日から間もなく9ヶ月ほどの時間の経過は、そう感じさせるほど長いものだ。 川の流れや電車の運行は、巨視的に見ればいつも同じだけれど、微視的に見れば、水の分子は常に川下へ移動しているし、乗客一人々々は日々異なっている。 人の心なんてものは、それらに比べて変化が明確だ。 変わらない方がどうかしている。 私はどうかしているんだ。
私だけ取り残された気がする。 それは自分で決めたことではあるけれど、私が留まっている間に、みんな先へ行ってしまった。 振り返り振り返り、私もともに進むことを期待しつつ前へ進んで行ってくれた人もいたが、そのときは、その気遣いに応えることが全くできなかった。 後悔の元をまた一つ増やしてしまった。
私だって変わりたいんだ。 前を向いて進みたいよ。 でも、それができなくて苦しんでるんだよ。
誰も私の気持ちなんて理解できない。 できるはずもない。 誰も他人の気持ちを理解することなんてできるわけないのだから。 そもそも、他人の気持ちを理解しようとなんて、誰もしないものだ。 だから、自分のことは自分で解決するしかないんだね。 それは分かるよ。 だけど、解決不可能な問題だってあるんだよ。
寂しい。 苦しい。 誰か助けて。
「彼と約束したから」 ・・・それもあります。
でも、彼との本当の約束は、「死ぬことなんて考えない」 というものです。
すでにその約束を破っています。 私の頭は 「死」 のイメージで埋め尽くされています。
そもそも、「彼」 というのは、私の勝手な思い込みでしかありません。
「彼」 にしてみれば 「彼女」 でもなんでもないということくらい分かってます。
私の存在なんて、その程度のものです。
いなくなっても誰も気付かない、そんな程度です。
実行に移さない本当の理由は、怖いから。
今生きていることの苦痛と死の直前に訪れる苦痛を比較する方法を知らないから。
生きていることの苦痛は、ある程度なら向精神薬で抑えることもできます。
こんな日記を書いていられるのも薬のおかげです。
ただ、薬を飲んでいても、絶望感は改善されないようです。
私の未来は閉ざされているのだから仕方ないといえばそれまでですが、
これがどうにかならないと、希望がないから生きていてもしょうがない = 死
という図式から逃れられません。
今日は副作用の検査と血中ホルモン濃度の検査のために採血をしてきました。
抗うつ剤の副作用ではなくて、ホルモン補充のほうです。
結果によっては断薬ということもあるかもしれません。
もし、そうなったら、本気で考えることになりそうです。