思いついたことを何の脈略もなくメモってみる。
必ずしも本心ばかりではないし、論理的には滅茶苦茶だったりもする。
明日になれば、また全然違う考えに変わっているかもしれないし、
「バカなこと言ってるな」ぐらいにしか思わないかもしれない。
自分の外見的欠陥を、逆に、どうにかして『武器』にできないだろうか
たまたま、人通りの多いところで、じっと座っている時間があって、いろんな人を観察してて思った。
私が好印象をもって見る人が、全ての人から同じように見られているわけではないに違いない。
気の持ちようの方向性としては正しいと思うけど、具体的な戦術としては疑問が残る。
「できっこないじゃん」と思った瞬間に敗北が決まってしまうような気がする。
『なりたい自分』は、そうなるのを待っているより、『なってしまう』ほうが手っ取り早い
本の受け売り。
無論、最初からそうなれるはずはない。そうなったつもりで演じてしまうという意味。
私の場合、目標が高すぎるので、とりあえずは内面的なところからスタートか。
っていうか、以前は内面ばかり考えていたような。
だから安定していたし、それなりの結果が出ていたような記憶も微かに残っている。
私の家庭には父性というものが存在しなかった
母親が専業主婦なので、家の中は母親を中心に回っていた。
だから、子供にとっては母親の論理が絶対だった。
そこに父親が「ときどき」現れるが、母親は父親を立てることをしないので、
子供の目には「異質なもの」、「誤った論理」としか映らない。
私が父を嫌悪しているのは、実は父が悪いのではなく、母に原因があったのかもしれない。
まんまとしてやられたか。だとしたら目的はなんだったのだろう。
問題が解決しないのは、解決しない状態を私自身が好んでいるから
これも本の受け売りに近い。
言われてみれば確かにそうかもしれない。決して悪気はないが。
でも、そうだとしても、その理由は分からない。
昔から、あっさり手に入るより、少しだけ苦労して手に入れる方が好きだった。
「努力し続けている状態」が楽しいのは、それが好きなことの場合は自然に思える。
そのことと関係するのだろうか。
大人になってからは、楽して手に入れる方が好きなんだが。
最近、泣いてない
本当に悲しいときは、泣いてしまった方が健康的だと思うのに、それができていない。
もっと深刻なのは、「感動して思わず涙を流す」ということが全くなくなっていること。
あの薬は感情の起伏自体を均してしまうものなのか。
だとしたら恐ろしい。