2008/02/17 (Sun) 12:04
ここのところ、この日記に「死ぬ」っていう言葉を書いてないでしょ?
どうしてだと思う? それはね、もう、死んでしまっていることに気がついたから。やっとね。
ウソだと思った? ブログって、未来の日付と時刻を指定して記録できるでしょ? この日記だって、ほんとはずっと前に書いたものが、今日、やっと自動的に公開されたのかもしれないよ。
最期をどうやって迎えようか真剣に考えてた頃、それをどうやって伝えたらいいのかも、もちろん考えてました。そんなことしたってしょうがないんだけど。だって、そんなこと考えてたときには既に私は死んでいたし、そのことを誰も悲しく思っていなかったことも知っていたから。でも、最期のときくらい、ほんのわずかな時間でも、私のことだけを考えてくれる時間を作ってほしかったし、できることなら悲しいと思ってほしかったし、私の苦しさを少しでも理解してほしかったから、「私は自分の意思でそうしたんだよ」っていうことを伝えたいと思ったんだ。
私の後輩で自殺した子がいるんだけど、その子は、警察と家族、親しい友人に宛てた手紙を投函してから投身しました。まだ、この国ではインターネットが商用には利用されていなかった(たぶん)ときのことです。今なら、時刻指定のメールか、私だったらこのブログを使うでしょう。何日分かの日記をあらかじめ書いておいて、万一失敗したときのために、ある程度の日数が過ぎたところで「実は・・・」って出るようにして。
その日記を見てくれたときは、誰かから呼び出しのメールが入っても、どこへも行かないでね。一晩だけでいいから、出会ったときから、狂ってしまうまでの私と一緒に過ごしたときのことを思い出して。私が楽しそうにしていたあの頃のことを。
どうしてだと思う? それはね、もう、死んでしまっていることに気がついたから。やっとね。
ウソだと思った? ブログって、未来の日付と時刻を指定して記録できるでしょ? この日記だって、ほんとはずっと前に書いたものが、今日、やっと自動的に公開されたのかもしれないよ。
最期をどうやって迎えようか真剣に考えてた頃、それをどうやって伝えたらいいのかも、もちろん考えてました。そんなことしたってしょうがないんだけど。だって、そんなこと考えてたときには既に私は死んでいたし、そのことを誰も悲しく思っていなかったことも知っていたから。でも、最期のときくらい、ほんのわずかな時間でも、私のことだけを考えてくれる時間を作ってほしかったし、できることなら悲しいと思ってほしかったし、私の苦しさを少しでも理解してほしかったから、「私は自分の意思でそうしたんだよ」っていうことを伝えたいと思ったんだ。
私の後輩で自殺した子がいるんだけど、その子は、警察と家族、親しい友人に宛てた手紙を投函してから投身しました。まだ、この国ではインターネットが商用には利用されていなかった(たぶん)ときのことです。今なら、時刻指定のメールか、私だったらこのブログを使うでしょう。何日分かの日記をあらかじめ書いておいて、万一失敗したときのために、ある程度の日数が過ぎたところで「実は・・・」って出るようにして。
その日記を見てくれたときは、誰かから呼び出しのメールが入っても、どこへも行かないでね。一晩だけでいいから、出会ったときから、狂ってしまうまでの私と一緒に過ごしたときのことを思い出して。私が楽しそうにしていたあの頃のことを。
もちろん、私はまだ生きています。でも、「死んでる」っていうのも事実です。だって、もう、私は姿を現すことがないのだから。霊魂だけが残っているのと同じ状態です。このブログの中にしかいないから。ただ、記憶の中にだっていないみたいだから、死者より浮かばれないのかもしれません。
いろいろ考えてました。どうして私は女装なんてしようと思ったのかとか、女装スナックに行くようになった頃のこととか、ホルモンに手を出した理由とか、「せーどーいつせーしょーがい」とかいうもののこととか、女装する人たちのこととか、世の中のこととか。
そうこうしているうちに気付いたのは、私は自分を愛したかったんだっていうこと。私は私を愛していなかった。私の家族が、私に愛というものを正しく教えてくれなかったから。もっと言うと、ひょっとしたら正しくないかもしれないけど、私の家族も愛というものを知らなかったのかもしれないから。あの人たちは、もしかしたら、自分が愛されていなかったことに気付いていて、私にも同じように、愛を与えないでおこうとしたのかもしれない。・・・だけど、否、だからこそ、幼かった私は、私だけは私を愛そうと思っていたんだ。そして、愛を注ぐ相手~自分~には、相応の外観を求めたわけです。私には、男の体を持った自分を愛することはどうしてもできなかった・・・。
人が人を愛するとき、大切なのは中身であって、外見なんて関係ないはずだ、ですか? 本気でそう思いますか? 目が不自由なわけでもないくせに、人の外見を完全に無視することなんてできますか? あなたが恋人に選んだ人の、その基準に外見は全く含まれていないと断言できますか?
もちろん、愛した人の顔が変わってしまっても、愛し続けることはできるでしょう。歳をとっても、事故や病気で無残なまでに変わってしまったとしても。だけど、まだ愛情を注ぐことを決心していない相手の外見は、その判断基準として、とても大切なものではありませんか?
人生経験を豊富に積んだ大人であれば、そんなものには惑わされないのかもしれません。だけど、少なくとも私はそうではありませんでした。私は、私に美しくあってほしかったし、女性であってほしかった。・・・そしてそれは今も変わらないのだけれど、今となってはもう、現実的でないほどの大金を払う以外には不可能になってしまいました。
ホルモンに手を出したのは、もしかしたら、私だけはこの年齢でも変われるかもしれないという、あり得ない希望を恥ずかしくも持っていたことが理由の一つではあったけれど、もっと現実的に、男の特徴を少しでも減らした状態に我が身を置いておきたいということからでした。骨格から何から、すでにどうしようもないほど男らしいことは、その道の専門医に言われて知っていましたから、せめて皮膚の表面や皮下脂肪と筋肉の付き方、体臭、それに性的な感覚とかが変わってくれたらという希望を抱いてのことです。そしてそれらは、残念なことに想像していた範囲内ではあるけれど、ほんの少しばかり実現してはいます。
他人から見れば何も変わっていないでしょう。元の私を知らない人にとっても、普通の男との違いは何もないでしょうし、常識的な感覚の人にとっては気味の悪い変態にしか見えないでしょう。そう、私はまだ私を愛することができずにいます。そして、それは永遠に不可能なのです。突然大金を手に入れるか、考え方を変える以外には。
精神科医やカウンセラー、スピリチュアルなんちゃらとかいう類いの人がこのブログを読むとどう思うんだろうと思うことがあります。よくある症例だと思うのか、そうだとしたら、そうでないとしたら、自分が引き受けて面倒を見たいと思うのだろうか。あるいは、簡単に治せるのに何故こんなにも苦労しているのだろうとか思うのだろうか、それとも、こういう患者は救いようがないと判断するのだろうか。少なくとも、今、私は救われてはいません。そして、もう、積極的に自分を変えようとも思いません。このまま、ただ齢を重ねて、本当に何もかもが終わる、法的にも医学的にも死という状態になるのを待つだけ。それまでの時間を無為に過ごすだけ。早く時間が過ぎて行ってくれるのを願うだけ。
性同一性障害の特例法が検討されていたとき、判断基準に外見を含めようとしていたということを最近になって知りました。ガイドラインにはリアルライフテストという形で残されています。実際にその性別で生活してみて判断しろ、ということですが、当然、外見がそぐわない人には苦痛となるはずだから、医者個人の判断を避けた形として残されたわけです。ただ、人柄がよい人や、周りの環境に特別恵まれた人、はたまた尋常でないほど鈍感な人は、この関門を想定外の手段でクリアしてしまいます。そういう悲劇が起こらないよう、専門医は、そこまで至らないうちに切り捨てることをしなければいけません。そして、実際にそういう仕組みで動いているようです。やはり「そういうふうに見える」ということが基準の全てであるべきです。誰が何と言おうと。
よく耳にする「普通に男のままでいればいいのに」などという、普通に生きていられる人たちの言うことは正しいです。できることなら私もそうしたかった。ただ、不思議なことに、そうしなかったはずの私は、普通に男のままで暮らしています。神の御心でしょうか、潜在意識がそうさせているのでしょうか、単に努力が足りないのでしょうか。たぶん、その全てです。
今まで、およそ努力というものをしたことがありません。負けず嫌いのはずなのに、勝つための努力もしないで済ませてきました。負ける可能性のある勝負を避けてきたから、努力というものをしなくても生きてこられたんです。勝てるかどうかを見極める目は持って生まれたものかもしれないと思うほどです。いえ、そんなことはないですね。本当にそうだとしたら、もう少しぎりぎりの勝負にも挑んでいたはずですから。少しでも負ける可能性があると思うと、尻尾を捲いて逃げてしまいます。努力することを放棄するのです。挙句の果てに、何も身に付かなかったばかりか、自信も希望も失ってしまいました。だから、努力というものそれ自体をする方法(というものがあるのかは疑問ですが)も全く知りません。
何かを身につけることができるかもしれないというイメージが全く持てないのです。これでは何もうまくいくはずがありません。これを変えることはできるのでしょうか。そのことについても、できないという思い込みが勝ってしまいます。真剣さが足りないのでしょう。切実さが足りないのでしょう。でも、それだけでもないとも思ってます。
天才は99%の努力と1%の閃き・・・とは、かのエジソンの言葉だったでしょうか。才能ではなく努力が大切だという意味で使われているけれど、本当は、努力には天賦の才能が必要だという意味です。努力のできる人のことを天才と呼ぶのです。何かをやり遂げた人、何かを身につけた人は、そこに至る努力が継続できたという意味で天才です。そして、天才は、ほかのことに対しても努力することができるため、一般に多芸です。一方、これは凡人には真似できません。何も身につかないし、一つのことをやり遂げることもできません。
蛙の子は蛙ともいいます。親は越えられないわけです。鳶が鷹を産むという言葉もあるけれど、それは、身分で人生が決められてしまった時代の話で、現代のように自由な世の中ではあり得ない話です。残念なことに、私の両親は、どう贔屓目に見ても人生の落伍者ですから、私も同じような人生を歩むことが生まれながらに決まっていたわけです。
唯一の救いは、もしも願いが叶っていたとしたら、そのほうが不幸だったかもしれないという空想ができるようになったことでしょうか。私にとって、今の状態が最も幸せなのだという狂信的な思い込みなら、こんな私にもできるかもしれません。それほど才能は必要なさそうです。
放っておかれているのも、優しさ故と信じることだって、もう少しでできるかもしれません。
いろいろ考えてました。どうして私は女装なんてしようと思ったのかとか、女装スナックに行くようになった頃のこととか、ホルモンに手を出した理由とか、「せーどーいつせーしょーがい」とかいうもののこととか、女装する人たちのこととか、世の中のこととか。
そうこうしているうちに気付いたのは、私は自分を愛したかったんだっていうこと。私は私を愛していなかった。私の家族が、私に愛というものを正しく教えてくれなかったから。もっと言うと、ひょっとしたら正しくないかもしれないけど、私の家族も愛というものを知らなかったのかもしれないから。あの人たちは、もしかしたら、自分が愛されていなかったことに気付いていて、私にも同じように、愛を与えないでおこうとしたのかもしれない。・・・だけど、否、だからこそ、幼かった私は、私だけは私を愛そうと思っていたんだ。そして、愛を注ぐ相手~自分~には、相応の外観を求めたわけです。私には、男の体を持った自分を愛することはどうしてもできなかった・・・。
人が人を愛するとき、大切なのは中身であって、外見なんて関係ないはずだ、ですか? 本気でそう思いますか? 目が不自由なわけでもないくせに、人の外見を完全に無視することなんてできますか? あなたが恋人に選んだ人の、その基準に外見は全く含まれていないと断言できますか?
もちろん、愛した人の顔が変わってしまっても、愛し続けることはできるでしょう。歳をとっても、事故や病気で無残なまでに変わってしまったとしても。だけど、まだ愛情を注ぐことを決心していない相手の外見は、その判断基準として、とても大切なものではありませんか?
人生経験を豊富に積んだ大人であれば、そんなものには惑わされないのかもしれません。だけど、少なくとも私はそうではありませんでした。私は、私に美しくあってほしかったし、女性であってほしかった。・・・そしてそれは今も変わらないのだけれど、今となってはもう、現実的でないほどの大金を払う以外には不可能になってしまいました。
ホルモンに手を出したのは、もしかしたら、私だけはこの年齢でも変われるかもしれないという、あり得ない希望を恥ずかしくも持っていたことが理由の一つではあったけれど、もっと現実的に、男の特徴を少しでも減らした状態に我が身を置いておきたいということからでした。骨格から何から、すでにどうしようもないほど男らしいことは、その道の専門医に言われて知っていましたから、せめて皮膚の表面や皮下脂肪と筋肉の付き方、体臭、それに性的な感覚とかが変わってくれたらという希望を抱いてのことです。そしてそれらは、残念なことに想像していた範囲内ではあるけれど、ほんの少しばかり実現してはいます。
他人から見れば何も変わっていないでしょう。元の私を知らない人にとっても、普通の男との違いは何もないでしょうし、常識的な感覚の人にとっては気味の悪い変態にしか見えないでしょう。そう、私はまだ私を愛することができずにいます。そして、それは永遠に不可能なのです。突然大金を手に入れるか、考え方を変える以外には。
精神科医やカウンセラー、スピリチュアルなんちゃらとかいう類いの人がこのブログを読むとどう思うんだろうと思うことがあります。よくある症例だと思うのか、そうだとしたら、そうでないとしたら、自分が引き受けて面倒を見たいと思うのだろうか。あるいは、簡単に治せるのに何故こんなにも苦労しているのだろうとか思うのだろうか、それとも、こういう患者は救いようがないと判断するのだろうか。少なくとも、今、私は救われてはいません。そして、もう、積極的に自分を変えようとも思いません。このまま、ただ齢を重ねて、本当に何もかもが終わる、法的にも医学的にも死という状態になるのを待つだけ。それまでの時間を無為に過ごすだけ。早く時間が過ぎて行ってくれるのを願うだけ。
性同一性障害の特例法が検討されていたとき、判断基準に外見を含めようとしていたということを最近になって知りました。ガイドラインにはリアルライフテストという形で残されています。実際にその性別で生活してみて判断しろ、ということですが、当然、外見がそぐわない人には苦痛となるはずだから、医者個人の判断を避けた形として残されたわけです。ただ、人柄がよい人や、周りの環境に特別恵まれた人、はたまた尋常でないほど鈍感な人は、この関門を想定外の手段でクリアしてしまいます。そういう悲劇が起こらないよう、専門医は、そこまで至らないうちに切り捨てることをしなければいけません。そして、実際にそういう仕組みで動いているようです。やはり「そういうふうに見える」ということが基準の全てであるべきです。誰が何と言おうと。
よく耳にする「普通に男のままでいればいいのに」などという、普通に生きていられる人たちの言うことは正しいです。できることなら私もそうしたかった。ただ、不思議なことに、そうしなかったはずの私は、普通に男のままで暮らしています。神の御心でしょうか、潜在意識がそうさせているのでしょうか、単に努力が足りないのでしょうか。たぶん、その全てです。
今まで、およそ努力というものをしたことがありません。負けず嫌いのはずなのに、勝つための努力もしないで済ませてきました。負ける可能性のある勝負を避けてきたから、努力というものをしなくても生きてこられたんです。勝てるかどうかを見極める目は持って生まれたものかもしれないと思うほどです。いえ、そんなことはないですね。本当にそうだとしたら、もう少しぎりぎりの勝負にも挑んでいたはずですから。少しでも負ける可能性があると思うと、尻尾を捲いて逃げてしまいます。努力することを放棄するのです。挙句の果てに、何も身に付かなかったばかりか、自信も希望も失ってしまいました。だから、努力というものそれ自体をする方法(というものがあるのかは疑問ですが)も全く知りません。
何かを身につけることができるかもしれないというイメージが全く持てないのです。これでは何もうまくいくはずがありません。これを変えることはできるのでしょうか。そのことについても、できないという思い込みが勝ってしまいます。真剣さが足りないのでしょう。切実さが足りないのでしょう。でも、それだけでもないとも思ってます。
天才は99%の努力と1%の閃き・・・とは、かのエジソンの言葉だったでしょうか。才能ではなく努力が大切だという意味で使われているけれど、本当は、努力には天賦の才能が必要だという意味です。努力のできる人のことを天才と呼ぶのです。何かをやり遂げた人、何かを身につけた人は、そこに至る努力が継続できたという意味で天才です。そして、天才は、ほかのことに対しても努力することができるため、一般に多芸です。一方、これは凡人には真似できません。何も身につかないし、一つのことをやり遂げることもできません。
蛙の子は蛙ともいいます。親は越えられないわけです。鳶が鷹を産むという言葉もあるけれど、それは、身分で人生が決められてしまった時代の話で、現代のように自由な世の中ではあり得ない話です。残念なことに、私の両親は、どう贔屓目に見ても人生の落伍者ですから、私も同じような人生を歩むことが生まれながらに決まっていたわけです。
唯一の救いは、もしも願いが叶っていたとしたら、そのほうが不幸だったかもしれないという空想ができるようになったことでしょうか。私にとって、今の状態が最も幸せなのだという狂信的な思い込みなら、こんな私にもできるかもしれません。それほど才能は必要なさそうです。
放っておかれているのも、優しさ故と信じることだって、もう少しでできるかもしれません。
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