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2007/03/05 (Mon) 23:25
書こうか書くまいか悩んでいたことがあります。
あまりに情けないことだからです。
というか、読むと気分を害すること請け合いです。
とりあえず、一旦、今回でこのシリーズはお仕舞いにします。
何か閃いたり、前向きな考えに宗旨替えできたらまた書きます。

以前、「価値のある人とそうでない人」について書いたら、お叱りを受けました。
おっしゃることは分かります。なら、こういう表現はどうでしょう。
「多くの人にとって価値の高い人」と「そうでない人」です。

こう捉えると、「そうでない人」のグループには、
特定の「ある人」にとっては「価値の高い人」が混ざっていて、
「誰にとっても価値の低い人」というのは例外なのかもしれません。
これなら、あまり極端な考え方ではないような気がします。

では、「人の価値」とはなんでしょう。
何かをもたらしてくれる「力」とか「可能性」とか
「期待感」とかそういうものではないでしょうか。
その「何か」はお金であったり、喜びであったり、感動であったり、さまざまです。
そういったものが得られる人と時間を共有したいと思うし、
そのためにほかのものを犠牲にしても時間を作ろうとするのだと思います。

なにも、こういったものを「与えてくれる」ばかりではなくて、
自分が与えたものを受け取ってくれることが、喜びを生んだりするわけですから、
必ずしも能動的なことが「価値の高い」ことの条件というわけではありません。
また、「面白い」ことが最近は求められることが多いようですが、
これも必須ではないでしょう。
すべての人がポジティブでなければいけないというものでもありますまい。
こういう要素は「多くの人にとって価値の高い人」には備わっていることが多い
というだけのことだと思います。
ただ、「多くの人にとって」受け入れられる要素というのは、
それを獲得することを目標にするのに適したものだということはできるでしょう。

そして、その人にとって「価値の高い人」たちと交流を持とうとするのが、
人間の自然な行動なのだと私は思っています。
反面教師としてとか、奉仕の精神を発揮することを目的として
「価値の低い人」に接近することもあるでしょうが、例外だと思います。

随分、勝手な考えを披露しました。
論理的にはおかしなところもあるでしょうし、倫理的には間違っているでしょう。
こういう考え方をするから、問題を抱えることになるのだと言えるかもしれません。
でも、少なくとも今までの私は、こういうふうに世の中を捉えています。
ただ、それは隠しておくべきだったかもしれません。

さて、こういう捉え方をしている私が、自分のことをどう見ているかというと、
「たいていの人にとって価値の低い人」です。
問題は、例外的に、「価値が低いとは見ていない人がいる」と思っていたことです。
でも、どうやらそれは間違いで、「いてもいなくても同じ」
という程度の位置付けだと解釈するのが妥当だったらしいです。
そのことが分かったときにはひどく落胆して錯乱しました。
でも、今はそれを受け入れることができつつあります。

「いてもいなくても同じ」なら「いればいい」んです。きっと。
でも、そこに「いる」ためには、相手にも「そこ」にいてもらう必要があります。
そこまで強要することはできません。そこまで「価値があるわけではない」からです。

こんなことを考えていると、人とコミュニケーションをとることが
だんだんできなくなってきます。
何が情けないって、この現状がです。
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